2009年12月11日

日本軍は中国軍の戦意を過小評価し

日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の首都南京陥落後も、国民政府は首都を内陸部の重慶に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の石原莞爾作戦部長はソ連への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた。近衛内閣は蒋介石との和平交渉を打ち切り、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を出す一方、蒋介石と対立する汪兆銘と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため援蒋ルートの遮断を狙い、ヴィシー政権のフランスと合意の上、フランス領インドシナへと進駐したが、このことが東南アジアを植民地にしていたアメリカやイギリス、オランダなどを刺激することとなり、経済制裁を受ける要因となった。
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日本への同調と自国存立のための戦争。ソ連と対峙する関東軍の後方支援に終始し、蒋介石中華民国政府とはほとんど交戦しなかった。
蒙古連合自治政府
中国からの独立のための戦争、およびソ連陣営である外モンゴルのモンゴル人民共和国の影響下から脱するための戦争。盧溝橋事件勃発後、内蒙古へ本格出兵した日本軍に応じる形で1937年に樹立された蒙古連盟・察南・晋北の3自治政府を、1939年に統合して蒙古連合自治政府が樹立された。名目としては汪兆銘中華民国政府下の自治政府という位置づけだった。

2009年11月30日

藁(わら)とは稲・小麦等、イネ科植物の茎のみを乾燥させた物。これを利用して様々な製品になっている。
日常生活においては、藁は古来より大切な副産物であって、下記項目で挙がっているように様々な製品の原料として利用されてきた。
古来から稲の生産が盛んであった日本では、藁は大量に出る副産物であり、これをいかに利用していくかが生活そのものであったと言っても良い。

例えば、『万葉集』の中でも見られる住宅に藁を敷いて寝るというスタイルは古代から地域によっては江戸時代まで続き、住宅が板敷きになっても藁布団を用いたり、茣蓙や筵のような敷物や畳・円座などの藁製品の上に座る風習は長く続いた。また、伝統的な日本家屋でも藁の利用は多く、木舞・苆として壁に塗り込んだり、重要部分を藁縄で結んだりした。
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衣服としては笠や蓑、草鞋、藁手袋、雪国における深沓など、食生活では鍋敷や鍋掴、束子や容器類など、その他箒や俵、畚、縄跳用の縄なども藁製品の代表例である。また、注連縄や藁馬、藁人形など宗教的な側面や、燃料・肥料・飼料などのエネルギーとしての側面なども有していた。不要な藁製品は堆肥化することで有用なまま処理することが可能であった。

藁細工を行うにはハカマと呼ばれる下葉を取り去るワラスグリをはじめワラ切り、ワラ打ちなどの加工、更に腐熟を防止するために囲炉裏で乾燥させるとともに煙の微粒子を付ける作業も重要であった。とはいえ、これらの作業以外は基本的には撚り・束ね・組み・編み・巻上げ・織りといった比較的習熟しやすい作業が多く、農作業が出来ない冬などに老若男女を問わずに現金収入を得るための藁仕事が行われた。

2009年11月26日

南アフリカ

南アフリカ
南アフリカ共和国では新世界としては比較的古く17世紀の半ばからワインの生産が行われてきた。長く続いたアパルトヘイトの影響もあり、この国のワインが国外に出ることは少なかったが、この差別制度が撤廃されて以降、徐々にその名が知られつつある。気候の関係から、アフリカ大陸の最南端、喜望峰周辺でブドウの栽培が行われている。
オーストラリア
オーストラリア は、世界でも有数のワイン生産国であり、その多くを海外へ輸出している。ブドウ畑は多くが比較的冷涼な大陸南部の沿岸に位置し、降水量が少ないことから灌漑が普及している。南オーストラリア州でオーストラリア全体の半分が生産される他、ビクトリア州、ニュー・サウス・ウェールズ州、西オーストラリア州やタスマニア州もワインの重要な産地を多数有する。著名な産地としては、南オーストラリア州にあるオーストラリア最大の産地リヴァーランド、他にバロッサ・ヴァレー、クナワ、ビクトリア州のヤラ・バレーが挙げられる。最も代表的なブドウの品種はシラーズである。
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中国
中国では最南西部雲南省の紅河ハニ族イ族自治州弥勒県がワイン生産の中心である。20世紀初め、ここに入ったフランス人宣教師が故郷に似たカルストの地形にブドウの栽培を試み成功させた。ベトナム統治時代のフランス(フランス領インドシナ)が、鉄道による中国との直結を機に、この温暖で安定した気候の地をブドウ栽培とワイン醸造の地とし、フランス本国より木樽と技術指導者を入れ本格的に生産を開始した。「ローズ・ハニー」という珍種はフランス本国でも虫害で絶滅してしまった品種で、黒酢の醸造からヒントを得て甕による熟成を特徴とする。

2009年11月13日

金融ビッグバン

1980年代、イギリスではサッチャー政権により、ビッグバンと呼ばれる大規模な金融規制緩和が行われた。これにより、ロンドン・シティには外資系金融機関が進出。イギリスの金融機関は厳しい競争に見舞われることとなった。買収・合併によりイギリスの金融機関はきわめて少数となり、シティは外国勢による取引所と化した(ウィンブルドン現象)。

日本では、1996年に橋本龍太郎首相の指示により、日本の金融市場を2001年までにニューヨーク、ロンドンとならぶ国際金融市場として再生させるための金融システム改革が行われた。これを、日本版金融ビッグバンと呼び、フリー、フェア、グローバルの3原則が採用された。
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この改革により、日本の金融市場は急速にオープンで競争的になり、いまや証券仲介手数料などは世界で最も低コストのクラスになっている。
ここでは、学問としての金融について述べる。 金融理論とは、経済学の一分野で、資金(貨幣)の概念、時間の概念、リスクの考え方やそれらの相互関係を解明するものである。

金融理論は経済学の中でも非常に実践的分野(とりわけコーポレートファイナンスやデリバティブズ、資本市場分析など)を含むことから、金融の基礎的な概念の把握を通り越して企業金融の一部としての「資金調達理論」やその中の「信用リスク測定」、「財務格付理論」などに注目されがちだが、本来はマクロ的には家計、企業、政府、国外市場の相互間における資金の有効需給を目的としたものであり、ミクロ的には個人の生涯の貯蓄や投資、ローン、保険の利用の効率化、企業の資金調達、運用の効率化のための科学領域である。

2009年10月31日

日本における法人および合弁企業

キヤリアの日本法人は、東洋キヤリア工業株式会社(Toyo Carrier Engineering Co., Ltd )として1930年に設立された。日本で初めてエア・コンディショナーを製造し、霞ヶ関ビルや皇居などに空調施設を納めた。工事部門は1969年に新日本空調株式会社(のち三井物産傘下へ)として分離独立した。

1999年2月1日にキヤリアは東芝の空調部門と合弁で東芝キヤリア空調システムズ株式会社を設立し、同年4月1日、東洋キヤリア工業をその傘下に入れ東芝キヤリア株式会社となった。東芝キヤリアは家庭用など小型空調設備を担当し、東洋キヤリアは大型空調設備を担当していたが、2008年4月1日に東芝キヤリア空調システムズ、東洋キヤリア工業、東芝キヤリアが統合し、東芝キヤリア空調システムズを存続会社として他の二社を吸収合併、商号を東芝キヤリア株式会社に改めた。また、親会社も東芝本社から東芝コンシューマエレクトロニクス・ホールディングス(白物家電部門を統括する中間持株会社)に変わった。


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なお、両社とも「キ“ャ”リア」ではなく「キ“ヤ”リア」である。

ニューヨーク州のシラキューズ大学にあるスタジアム「キャリアドーム」はキヤリヤの命名権使用料を一部当てて建設された。ただし、シラキューズの気候とこのドームの使用シーズンの関係で、空調設備は設置されていない。

2009年10月20日

擦弦楽器

擦弦楽器(さつげんがっき)とは、弓または棒で、弦をこする(擦・さつ)ことによって音を出す楽器の総称である。 一般にリュート族擦絃楽器は中東もしくは中央アジアで生まれ世界に広がったといわれるが根拠に乏しい。

絃をはじいて鳴らす撥絃楽器がすでに紀元前の古代文明から 用されていたのに比べ、擦絃楽器の出現ははるかに遅い。現在知りうる限り、もっとも古く存在したと思われる擦絃楽器は、隋、唐の時代(7世紀)に中国や中国北部の遊牧民族で 用されていた軋箏 奚琴である。両者とも河北あたりで使われたらしく、今でも河北には「軋琴」という軋箏と同様な楽器が使われている。ただし本来軋箏はツィター属である。奚琴は今日の二胡などを含む胡琴に非常に近い形状をしており、竹の棒片で擦って奏するもので、唐宋まで撥絃楽器であったという説明も見かける。北宋の音楽理論家陳暘著「楽書」の説明によると「・・・両絃間以竹片軋之・・・」とあり、少なくとも北宋代には擦奏であったことがわかる。一方弓擦楽器では、現在最も古く文献に現れるものが10世紀アラビアのラバーブ(アル・ファーラビー著「音楽大全」)と言われている。一方中国でも、北宋の音楽理論家沈括の著書「夢渓筆談」に、「馬尾胡琴」という名の楽器が登場する。「馬尾」という語からして現在の胡琴の弓と同様のものと思われる
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このラバーブ以前、弓で擦奏されていた楽器は見られない。隋唐の時代には、周辺各地の音楽、楽器が大量に流入した。ことに西方の音楽は広く好まれ、壮大な理論と合奏音楽が生み出され、これらの資料は今日でもかなり残存している。しかしこれらの中に弓擦楽器の記録はない。一方同時代の西方においても、ササン朝ペルシアで使用された楽器の中にも、擦絃楽器は見当たらない。

擦弦楽器

擦弦楽器(さつげんがっき)とは、弓または棒で、弦をこする(擦・さつ)ことによって音を出す楽器の総称である。 一般にリュート族擦絃楽器は中東もしくは中央アジアで生まれ世界に広がったといわれるが根拠に乏しい。

絃をはじいて鳴らす撥絃楽器がすでに紀元前の古代文明から 用されていたのに比べ、擦絃楽器の出現ははるかに遅い。現在知りうる限り、もっとも古く存在したと思われる擦絃楽器は、隋、唐の時代(7世紀)に中国や中国北部の遊牧民族で 用されていた軋箏 奚琴である。両者とも河北あたりで使われたらしく、今でも河北には「軋琴」という軋箏と同様な楽器が使われている。ただし本来軋箏はツィター属である。奚琴は今日の二胡などを含む胡琴に非常に近い形状をしており、竹の棒片で擦って奏するもので、唐宋まで撥絃楽器であったという説明も見かける。北宋の音楽理論家陳暘著「楽書」の説明によると「・・・両絃間以竹片軋之・・・」とあり、少なくとも北宋代には擦奏であったことがわかる。一方弓擦楽器では、現在最も古く文献に現れるものが10世紀アラビアのラバーブ(アル・ファーラビー著「音楽大全」)と言われている。一方中国でも、北宋の音楽理論家沈括の著書「夢渓筆談」に、「馬尾胡琴」という名の楽器が登場する。「馬尾」という語からして現在の胡琴の弓と同様のものと思われる
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このラバーブ以前、弓で擦奏されていた楽器は見られない。隋唐の時代には、周辺各地の音楽、楽器が大量に流入した。ことに西方の音楽は広く好まれ、壮大な理論と合奏音楽が生み出され、これらの資料は今日でもかなり残存している。しかしこれらの中に弓擦楽器の記録はない。一方同時代の西方においても、ササン朝ペルシアで使用された楽器の中にも、擦絃楽器は見当たらない。

2009年06月21日

地域医療(ちいきいりょう、community medicine)とは

地域医療(ちいきいりょう、community medicine)とは、病院や医療機関での疾患の治療やケアにとどまらない概念である。

地域医療において医師および医療従事者は、地域住民全体の幸福を常に考えながら医療活動を行うことが求められる。予防活動は疾病の治療と同等に重視される。医師や医療従事者が地域の住民に働きかけて、疾病の予防や健康の維持、増進のための活動を行うこと。疾病の治療にとどまらず、リハビリ、在宅療養のサポート、地域で暮らす高齢者、障害者の支援などの事業。妊婦の保健指導や相談、子育ての支援なども行われる。最近では、在宅の引きこもりの児童から成人などへの関わり等もその活動範囲となる。こうした活動を医療機関が単独で担うのではなく、地域の行政や住民組織と協力してすすめていくことが特徴である。地域医療においては、医師や医療従事者の活動と同等に、地域住民の健康を守る活動が重視されている。地域医療とは、医療を通じて社会の民主化、住民自治を推進し、医師と地域住民が手を取り合ってより良い地域社会を築いていくことをめざす活動である。

長野県にある佐久総合病院の若月俊一は、「医療はすべからく地域医療であるべきで、地域を抜きにした医療はありえない。あえて地域医療というのはいかに地域がないがしろにされているかということの裏返し」と述べている。このように地域医療という概念そのものが、現代の病院中心の医療に対する批判となっている。 
「地域医療」という概念が提唱され一般化していったのは、長野県にある諏訪中央病院が中心となって主催した地域医療研究会の実践によるところが大きい。諏訪中央病院のお手本になっていたのは、おなじ農村地域で医療を行っていた佐久総合病院などの活動であった。佐久総合病院の若月俊一は、自分たちの活動を農村医療として捉えていた。しかし農村の社会構造の変化にともない、地域での医療活動は農民だけを向いたものではなくなっていた。世界的にも、1978年のアルマ・アタ宣言で、プライマリ・ヘルス・ケアが定義され、医療と健康の問題を住民自治の力で解決しようとする考えが提唱された。1970年代の後半には徐々に、農村医療という呼称にかわるものとして地域医療という概念が醸成されていった。1979年に「地域医療研究会(仮称)準備会」が小規模に開催され、1980年に「地域医療研究会'80」が諏訪中央病院の主管で開催された。ここには、大学の医局から離れて各地で地域医療を行っている医師、地域医療を志す医学生、自治医科大学関係者などが集った。
日本の物語
私たちの憲法
ハムスター
大気のお話
住宅用語
野菜事典
知って得証券語
南北朝時代
栃木の湯めぐり
蘭の世界紀行
空手道
歯周炎
植物園
銀行
商社
フェンシング
アパレル
映画祭
肝炎
お化け屋敷

そこでは地域医療の定義についても討議された。浅間総合病院の吉澤国雄がこれをまとめ、『地域医療とは包括医療(保健予防、疾病治療、後療法および更生医療)を、地域住民に対して社会的に適応し実践すること』と定義した。その後、『都市での地域医療』、『患者の命と人権』などにテーマは広がっていった。先進的な医療機関では、介護保険施行以前に老人デイケアを行ったり、病院を中核に、医療と福祉が一体化した保健福祉拠点の整備を行ったりするなどの実践を積み重ねながら現在に至っている。

地域医療のテーマに関して概観すれば、80年代には予防と治療の一体化が課題とされ、それが概ね実現された90年代には医療と福祉の一体化が課題となった。最終的には、住民を巻き込んだ予防医療、患者にやさしい医療、医療と継ぎめなく提供される福祉、これらを一体的に提供することが目標になった。地域医療に先進的な医療機関の経験は、地方自治体の保健福祉計画の手本となり、80年代から90年代に、国保病院、国保診療所、厚生連病院などの公的医療機関に波及していった。それに伴い「地域医療」という用語も一般化して用いられるようになった。現在では、国の政策[1]にも取り入れられて、厚生労働省や大学医学部も地域医療の重要さを語るようになっている。


2009年06月02日

一つ刀剣史上注記すべき点としては

一つ刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる吉井川の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛治の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の大名は量産体制のある美濃の鍛治をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。

刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。 新刀の祖は梅忠明寿と言われており、その弟子に肥前国忠吉がいる。

備前鍛治が壊滅状態に陥った事もあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛治は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康が越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。

江戸時代に入り、朱子学の発想に基づく風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人等の差し料の寸法が制定された。特に武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛治は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、筑前信国派、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、薩摩・波平一派等である。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。
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武家文化の中心である江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛治の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛治も出現し、お互い技量を高めた。また、天草の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術が竹刀による稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・石堂是一(初、二代)・和泉守兼重、上総守兼重・大和守安定・法城寺正弘・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢虎徹、奥里、奥正がいる。少し後れて、石堂派から日置光平、対馬守常光がいる。

2009年04月30日

耽羅(たんら)

耽羅(たんら)は朝鮮の済州島に古代から中世にかけて存在した王国である。百済、統一新羅、高麗に内属し、15世紀始め李氏朝鮮に完全併合された。耽牟羅、屯羅[1]などとも表記される。

耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓穴の伝説[2]もあるが、歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡[3]が初見であり、韓族とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。

『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し[4]、498年に百済の東城王に服属した[5]とあるように、498年以後は百済に朝貢していた。しかし660年百済が唐軍の侵攻によって突如滅亡すると、耽羅は大混乱に陥った。662年には新羅に服属したとみられる[6]が、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。

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当時の記録によれば、耽羅には既にピョル主(ピョルチュ、별주)または星主(ソンジュ、성주)、王子(ワンジャ、왕자)または星子(ソンジャ、)、徒内(トネ、도내)と呼ばれる支配者が存在していた。これらの称号は新羅文武王が与えたとする文献もある。いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いた。耽羅星主が筆頭格で、これを王とする。

935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、938年には高麗に服属した。高麗は1105年に耽羅郡を設置し、1121年には済州と改称したが、星主、王子など旧来の支配者の称号は認めていた。元は高麗を制圧すると1274年に耽羅を直轄地にして牧場を置いたが、1294年に高麗に返した。

高麗に代わった李氏朝鮮は、1404年に星主、王子などの伝統ある称号を廃止し、1416年には済州牧使の下に県も設置した。これより内地(韓国では陸地という)と同様の地方支配体制となった。